「趣味を仕事にしたい」っていう方って意外と多いのではないでしょうか。
純粋に「『好き』を仕事にしたい」というポジティブな動機もあれば、「勤め先からの束縛から解放されて自由に働きたい」という少々ネガティブな動機もあるでしょう。
趣味をマネタイズするには具体的にどうすればいいかという課題や、軌道に乗せて安定した収入を得るという障壁があるものの、好きなことであれば何となく続けられそうですよね。
一方で「趣味を仕事にしたことで楽しくなくなった」というお話もちょくちょく聞きます。
今日はその辺について、深掘りしてみたいと思います。
日常生活を「義務」という切り口で考えてみる。
このブログの読者さんであればご存じの通り、私は会社員でありながら、かなり自由な生き方をしてる部類に入ると思います。
でも、会社からは多かれ少なかれ仕事の品質や締め切りが求められますし、そもそも会社との労働契約において「〇〇をしなければならない」ということがたくさんあります。
例えば、
- 8時から17時まで出社しなければならない。
- シフトで決められた曜日に出社しなければならない。
- 休憩時間は1時間。
「そんなの当たり前だよ」って思われるかもしれません。小学校から続く集団生活に慣らされて、何の疑問を感じず今に至っているわけですから。
しかし、こうして文章に起こしてみると「義務」であることに気付かされませんか?
そしてこれ、本当に職場だけの話でしょうか?
家庭においても、たくさんあるはず。
- 〇時に保育園に子供を迎えに行かなければならない。
- 夕飯の買い物をして、帰って洗濯をしながらご飯支度をしなければならない。
- 給料日に振込をしなければならない。
などなど具体例を挙げればキリがなく、日常生活でも「義務(務め)」による束縛がたくさんあることに気づかされます。
そしてこれらからすべて解放されれば、晴れて完全な自由人になれるのかもしれない。
でも、それはそれで人生に張り合いがなくなるのかもしれない。
ただ、こうした多くの務めから適度に解放されることによって、リラックスした暮らしが送れることは確かなようです。
楽しみや趣味の世界にも「義務」の束縛がないだろうか?
さて前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
私たちが「楽しみ」でやっていることの中にも、知らず知らずのうちに自分自身でノルマを課し、半ば義務のようにやっていることってありませんか?
その義務が、楽しさを半減させているのではないか?というのが私の観測です。
義務が増えすぎてしまった状態こそ、「趣味を仕事にすると楽しくなくなる」ということなのではないかってお話。
例えばマラソンであれば、多くの人がタイムを縮めたいという目標を掲げますが、そのためにはコツコツと練習をすることが必要になりますよね。
そして多くの人が次のような目標設定をします。
- 今月は300km走らないとならない。
- 明日は日曜日なので、朝からこのメニューを消化しなければならない。
- ビールを飲んではならない。
- 体脂肪率を〇%まで落とさないとならない。
最終的な目標達成のためには、こういった途中過程での目標設定は確かに大切。
でも、いつの間にかヒートアップしてしまい、気付けば義務になっていないだろうか?って。
趣味や遊びの世界であれば、最後まで楽しくやりたいって思いません?
これが職業になってしまうと、どうなるでしょう?想像してみてください。
あまり楽しそうじゃないですよね?
私の場合
ここ最近、私が趣味や遊びやっていることについても少し言語化してみました。
- 日本百名山を完登したい。
- 衰えないために日々走ろう。
- 今週末は晴れるから山に登ろう。
- ブログを書き続けたい。
- ワンシーズンで札幌150峰を完登したい。
- 部屋中をミッフィーで埋め尽くしてみたい。
- 50歳までに海外マラソン50レースに参加したい。
- 世界中の国々に訪れたい。
これ、すべてやりたいって思って行動してきたこと。
”would like to”、むしろ感情的に”want to”でやっていることなんですが、実際にはいつのまにか”must”の意味合いが強くなっていることも。
さらによく言われる「手段が目的化する」という現象も。
知らず知らずのうちに、趣味や遊びの世界にも浸食されているのかもしれないって。
ゴルフや食べ歩き、資格取得、交流会、SNS、、、
みなさん思い当たることが1つや2つくらいありませんか?
先日、日本百名山の話で触れたように、私の場合は百名山に登って愉しむことが目的のはずなのに、いつの間にか百名山に登ること自体が目的化しているってことに気付いちゃって。
私が理想としているのは、刹那主義なのかな。その時その時が楽しければいいし、それを求めたい。
刹那的な楽しいの積み重ねによって、自分が目標としている成果が出せることが理想で、趣味や遊びの世界で幸福度が最大になるのだと思うのです。
だから趣味や遊びでやっていることなのに、刹那的な楽しいを感じなくなったら黄色信号。
それは義務になっているかもしれないぞ、と立ち止まって考えてみることが必要かもしれません。
「遊びを仕事をすると楽しくなくなる。」っていう話、こういう理屈なのではないかなって私は解釈しています。